【人物図鑑】ラグビーW杯を成功に導き、プロ化を実現。再度の日本開催にトライする
日本ラグビーフットボール協会 名誉会長
株式会社森硝子店 代表取締役会長
森重隆
【もり・しげたか】
1951年11月6日生、福岡市博多区出身、福岡県立福岡高校卒~明治大学卒。1974年新日本製鉄に入社、7連覇した新日鉄釜石ラグビー部では前半の4連覇で主将・選手権監督を務めた。1982年に帰郷して家業の森硝子店に入社、1991年社長に就任。1993年に母校の福岡高校ラグビー部のコーチに就き、1995年から監督を務めて2010年に福高ラグビー部を全国大会(花園)出場に導く。2015年日本ラグビーフットボール協会副会長および九州ラグビーフットボール協会会長、2019年6月日本ラグビーフットボール協会会長、2022年6月同名誉会長に就任。選手時代のポジションはセンターバック(CTB)。日本代表のキャップ数は27。「ヒゲ森」の愛称でも広く知られる。
【3Points of Key Person】
◎ 日本ラグビー協会の名誉会長を務めながら、家業でも会長職を務める
◎ 日本ラグビー協会会長としてラグビーW杯を成功に導き、プロ化を実現
◎ ラグビーワールドカップの日本での再開催に向けてトライしていく
天性のラガーマンによる企業経営にラグビー精神が生きる
地元・福高で3年連続花園出場。明大ラグビー部では北島忠治御大の門下生。新日鉄釜石Ⅴ7では前半4連覇の主将・選手兼監督。日本代表でのキャップ数は27。母校・福高監督として花園出場。
日本ラグビーフットボール協会の会長としてラグビーワールドカップ日本大会を成功に導き、プロリーグも立ち上げた。
「いまでも日々の約9割は、ラグビー絡みになっている」
現在、日本ラグビーフットボール協会の名誉会長を務める森重隆・森硝子店代表取締役会長は豪快に笑いながら、屈託のない表情で語る。
フランスで4年ぶりのラグビーワールドカップが開催される今年・2023年は、ラグビー誕生200周年だ。
1823年にイギリスの名門私立校『ラグビー校』でのフットボールの試合中に生徒が突然、ボールを手に抱えてゴールへ走り出したのが最初だった。
一方、日本初のラグビー試合は1873年、横浜でイギリス船員らによる試合であり、今年は日本でのラグビー開催150周年という年でもある。
「日本各地の大学ラグビー部が、相次いで創部100周年を迎えており、土田雅人会長と手分けして全国を飛び回っている」とする森会長は、東奔西走の日々を過ごす。
本業は来年、創業100周年を迎える株式会社森硝子店の代表取締役会長だ。
森硝子店と関連会社は、二人の息子がそれぞれ〝司令塔〟を務めており、本人は〝総監督〟的な存在といえる。
「仕事で一番嬉しいことは、社員が褒められること。それはラグビーで若手選手が褒められると嬉しいことに相通じる」と相好を崩す。
「会社の業績が良くなると、社内に笑顔が増え、職場が活気づく。スポーツでもチームが試合に勝つと、笑顔が増えて活気づいていく」と、目を細める森会長にとって、ラグビーの「One for all All for one」の精神は、自社の企業経営にも生きているといえそうだ。
駆け抜けて来たラグビー人生、青天のへきれきで会長就任
中学時代にバレーボール部に所属していた森会長は、福岡高校へ進学してラグビー部の門を叩いた。
小柄だった森会長は、持ち前の俊足を生かして2年生時からセンターバックを務め、花園でも快走をみせた。
その後、強豪・明治大学では、北島御大の異名でも知られる北島忠治監督から〝糸の切れた凧〟と評される奔放でスピード感のある走りと弾けるようなステップでトライを量産した。
そして、新日本製鉄に入社しての赴任地は現在、『鉄と魚とラグビーの街』として売り出している岩手県釜石市だった。
もっとも、赴任時は野球全盛期であり、さらに新日鉄釜石から阪急のエースである山田久志投手が入団した経緯もあり、「当時、現地でもラグビーはマイナーなスポーツだった」と、森会長は振り返る。
社会人3年目の1976年の日本選手権で学生時代の宿敵・早稲田大学を破って初の日本一に輝いた。
その後、新日鉄釜石は1978年から7連覇を成し遂げていく。
森会長自身は、前半の4連覇において主将・選手兼監督として優勝に貢献した。
「ラグビーも試合に勝っていくにつれて、釜石でもラグビー人気が出てきた。そして、新日鉄釜石の勝利を自分のことのように喜んでくれる市民の姿は、有難かった」と、森会長は懐かしむ。
その後、30歳を迎えた森会長は引退して帰郷、家業の森硝子店に入る。
40歳で3代目社長に就任した森会長は、「父が会社の土台を作ってくれていた。業歴があった上に日本経済の流れにも乗ることができた」と、経営者としての顔をみせる。
企業経営の一方で母校である福岡高校ラグビー部では、コーチや監督として22年にわたって指導した。
記念大会となった2010年開催の第90回全国高等学校ラグビーフットボール大会では、東福岡高校と共に花園出場を果たした。
初戦の本郷高校戦で試合終了間際に逆転トライを決めたのは、あの福岡堅樹選手だった。
「当時から超高校級の選手だったものの、まさかあれだけの実績を上げる選手になるとは思いもしなかった」と、森会長は教え子の活躍に目じりを下げる。
「お前しかいないから、会長を引き受けてくれないか」
九州ラグビーフットボール協会会長への就任と同時に日本ラグビーフットボール協会の副会長に就いていた森会長は2019年5月、当時の森喜朗会長から直接、後継を打診された。
日本開催を目前に控えた2019年7月、日本ラグビーフットボール協会の会長に急きょ就任。
早速、開催地の12都市を回り、「日本の自治体は、バグ無く完璧に準備しており、本当にすごいと思った」。
アジアで初の開催となったラグビーワールドカップ2019において日本代表は、福岡選手らの活躍もあって初のベスト8入りを成し遂げた。
日本中でラグビー人気に火が付き、日本代表のスローガン「ONE TEAM」は、同年の新語・流行語大賞に選ばれた。
さらにワールドラグビーのビル・ボーモント会長は、「2019年日本大会は、おそらく過去最高のラグビーW杯として記憶されるだろう」と絶賛した。
「日本のスポーツ界で最もプロ化が遅れていたのは、ラグビーだった」とする森会長は長年、懸案だったプロ化に挑んだ。幾多の困難を乗り越えて2022年1月、『JAPAN RUGBY LEAGUE ONE』を立ち上げた。
そして同年6月、会長の70歳定年ルールを順守して、自ら退いた。
「もう一度、ラグビーW杯の日本開催を目指す」
2023年フランス(男子)(女子ニュージーランド2022年)、2027年オーストラリア(男子)(女子同2029年)、2031年アメリカ(男子)(女子同2033年)……。
世界中のスポーツ好きを熱狂させたラグビーワールドカップの開催国は2035年以降、未定だ。
「日本でのラグビーワールドカップ開催を通じて、日本がいかに安全な国であり、すばらしい国であるということが世界中で実感されて、経済効果もあった」とみる森会長は、「もう一度、日本での開催を実現させたい」との思いを抱く。
日本が再びONE TEAMになり、スクラムを組んでいくことを通じて、夢の実現に向けてトライしていこうとする。
DATA
名 称:株式会社森硝子店
住 所:福岡市博多区博多駅南3-18-4
創 業:1924年8月
代表者:代表取締役会長 森重隆、代表取締役社長 森重義
事 業:ガラス販売・取付工事、サッシ販売・取付工事
URL:http://mori-glass.co.jp/
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