【人物図鑑】〝音楽都市・福岡〟に向けて、音楽とまちづくりのビートを刻み続ける

福岡音楽都市協議会
理事・企画運営委員長
深町健二郎

【ふかまち・けんじろう】
1961年12月22日生、福岡市出身、福岡市立福岡西陵高校卒~駒澤大学卒。小学校4年生の時、ビートルズと出会い、ミュージシャンを志す。学生時代、元ロッカーズのギターリストである谷信雄氏と共に『ネルソープ』を結成して活動。解散後、帰福して1984年4月、西鉄旅行に就職して音楽関連のツアー企画や来福するアーティストのアテンドや航空券・宿泊の手配を手掛ける。日本初のオールナイト・ロック・フェスティバル『BEAT CHILD』では、旅行スタッフとして参画。1987年7月、『ソラリアプラザ』のイベントプロデューサーに抜擢される。1989年10月、人気テレビ番組『ドォーモ』のコメンテーターに就任。2001年8月、企画制作会社『フリースタイル』を設立してCEOに就任。2014年.福岡ミュージックマンス総合プロデューサー、2020年3月福岡市文化芸術振興財団理事、2021年3月福岡音楽都市協議会理事に就任。
【3Points of Key Person】
◎ コメンテーターやプロデューサー、パーソナリティーなど多岐に活躍
◎ 福岡ミュージックマンスや福岡音楽都市協議会を立ち上げる
◎〝音楽都市・福岡〟の実現を目指して、各種構想を練る
「クレイジー」と海外も驚く福岡ミュージックマンス

BAYFES(ベイフェス)、NAKASU JAZZ(中洲ジャズ)、Sing!HAKATA(シングハカタ)、ISLA DE SALSA(イスラ・デ・サルサ)、MUSIC CITY TENJIN(ミュージックシティ天神)━━。
毎年9月、福岡市内で5つの音楽フェスを開催する『福岡ミュージックマンス』の幕開けは、2014年のことだった。
「偶然にも9月に5つの音楽フェスが集中していたことに着目し、集結させることで〝音楽都市・福岡〟として、全国やアジアへ情報発信していく。そして、広域集客による街の賑わいづくりや音楽産業の振興を目指して始めた」
福岡ミュージックマンスを立ち上げ、自ら総合プロデューサーを務める深町健二郎福岡音楽都市協議会理事は、和やかな表情で語る。
英国・ロンドンに本社を置く音楽コンサルティング会社が毎年、世界各地で開催する『ミュージックシティ・コンベンション』も福岡ミュージックマンスに注目した。
2018年4月、オーストラリア・メルボルンで開催された会議において、深町理事が、活動報告を行う。
すると、驚愕した関係者は、「おまえたちの町は、クレイジーだ」と言い放った。
もっとも、深町理事自身は、「博多弁での〝のぼせもん〟を英訳したら、クレイジーという英単語になるのか」と、一人得心した。
長年、深町理事は地元・福岡において、テレビコメンテーターやイベントプロデューサー、ラジオパーソナリティー、ミュージシャンなど幅広く活動してきた。
深町理事が現在、企画運営委員長を務める福岡音楽都市協議会は、新型コロナウイルスによるパンデミックへの対策・支援の一環として誕生したという経緯がある。 コロナ禍下、音楽を含む文化芸術活動は、〝不要不急の外出自粛〟の対象とみなされた。
そして、音楽イベントも相次いて中止されていき、音楽関係者やイベント関係者らは、窮地に追い込まれた。
そうした中、「福岡市の音楽関係者やイベント関係者らが集結して行政と連携し、街中におけるストリートライブの認可や誰でも自由に弾けるストリートピアノの設置に乗り出した」ことを深町理事は明かす。
そして、深町理事は、「福岡の音楽をさらに深め、ジャンルや分野の壁を越えて、産学官民で新たな可能性を探り、協議・実行していく全国初の組織として発足した」と解説する。
在学中にプロデビュー目前、一転帰郷して社会人生活

小学校4年生だった1970年、ビートルズを題材とした映画を見たことが、深町理事の音楽活動の原点となった。
中学校の卒業目前、バンド仲間らとチケットを手売りしての西新パレスのステージが、ミュージシャンとしての初舞台だった。
高校時代、自校の学園祭へ出演する一方、他校の仲間らとバンド活動を一緒にやり、「音楽を通じて、同好の友ができて楽しかった」。
大学進学では、ミュージシャンを志して上京した。
ちょうど、めんたいロックが話題になり始め、福岡のバンドも続々と上京してデビューを果たしていた。
深町理事自身も在学中、プロデビューの話があったものの、苦楽を共にしてきたバンド仲間と一緒ではなく、他のメンバーとの混合バンドの一員という不本意なものだった。
そのため、デビュー話を断り、バンドも解散し。卒業と同時に帰郷した。
学生時代にバックパッカー対象の小さな旅行代理店でアルバイトをして、半年間の香港駐在員も経験した深町理事は、西鉄旅行に入社して、社会人デビューを果たす。
そして、音楽とは無縁の慌ただしい日々となった。
「自分の得意分野は、やはり音楽だ」と気づいた深町理事は、ローリングストーンズのステージを見にいくツアーを企画し、来福したアーティストのアテンドや航空券·宿泊の手配も手掛けた。
1987年8月、後に伝説となる日本初のオールナイト・ロック・フェスティバル『BEAT CHILD』では、旅行スタッフとして立ち会った。
BEAT CHILDのプロモーターから「今度、新しい商業施設が完成するので、イベントプロデューサーを募集中だ」ということを知らされた。
早速、面談へ足を運んだ深町李氏は、思いがけずソラリアプラザの初代イベントプロデューサーに抜擢された。「自分の人生において、大きな転機だった」と、深町理事は目を細める。
1989年のある日、地元テレビ局から深夜帯の新番組立ち上げで相談された。その翌日、コメンテーターとして出演を依頼されたのが、KBC九州朝日放送の人気番組『ドォーモ』だった。
以後10年にわたり、平日の日中はイベントプロデューサーなどの仕事をこなし、夕方からテレビ局へ通う日々が続いた。
この間、息抜きでよく訪れた糸島では、自然の素晴らしさを体感した。
そして当時、喫茶店の駐車場で開催していた『サンセットライブ』と出会い、スタッフとして携わり始める。
最終的に2万人もの観客を呼び込む一大音楽フェスになったサンセットライブは2024年9月、30回開催を節目に幕を下ろした。
〝音楽都市・福岡〟の実現に向けて布石を打ち続ける

「自分なりの整理ができた半面、改めてやれてないことの多さに気づいた」
初の著書となる『音事記~音楽都市・福岡はなぜ生まれたのか~』を著した深町理事の表情は、引き締まる。
「ミュージシャンを数多く輩出する一方、福岡には彼らが戻って来る受け皿や活躍できる場が無かった。今後は、〝音楽都市・福岡〟として、インターネットやSNSも活用しながら、音楽の力や可能性を追求していきたい」と、深町理事は新たな挑戦に乗り出す。
具体的な取り組みとして、人々が音楽都市・福岡を体感できる『エンタメミュージアムシティ』構想をはじめ、誰でもが楽しめる『野外劇場』建設、さらに世界の音楽関係者が一堂に会する『ミュージックコンベンション』の開催を挙げる。
「周り道だと思っていたことも、結局は全てがつながっていたことに気づいた」と、相好を崩す深町理事は、「Beat goes on!」(福岡の音楽は止まらない!)という言葉を胸に刻み続ける。
DATA
名 称:福岡音楽都市協議会
住 所:福岡市博多区下川端町3 -1 リバレインセンタービル 8F(福岡市文化芸術振興財団内)
設 立:2021年4月
代表者:会長 石原進
事 業:音楽産業振興、都市ブランディング、異文化交流(ハブ都市化)
URL:https://mccf.jp/



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